島田大祭(大井神社)

【祭礼日】10月第二土~月曜日(寅・巳・申・亥の年)
【場 所】大井神社(島田市大井町2316)

【日 程】土曜日[御夕祭]8:00~21:10(屋台・鹿島踊り・大名行列)、日曜日[御本祭]8:30~21:10(屋台・鹿島踊り・大名行列)、月曜日[お渡り]8:00~21:30(大名行列・神輿渡御・鹿島踊り・屋台)

島田大祭は、元禄8年(1695年)神輿渡御とこれに従う「鹿島踊り」の行列から始まり、寛政年間(1789~1801年)から「大名行列」が加わり、その後、万延元年(1860年)までの間に「屋台」も加わるようになったといわれます。

3年に1回、寅・巳・申・亥の年に行われ今年は第106回になります。

【祭りの運営組織】祭りは九つの組織で運営されています。大井神社のある本通りは西から東へ順に一~七丁目に分けられていて、それぞれが街(がい)という組織を作っています。

第一街から五街までの五つは屋台を出し、六街は鹿島踊りを出し、七街は大名行列を出し、そのほか新田町(シンデンチョウ)は「新組(シングミ)」として神輿のお渡りを担い、御仮屋町(オカリヤチョウ)は元宮(モトミヤ)として御旅所に神輿をお迎えします。

それぞれの街には祭典本部・青年本部・中老本部という組織が置かれて仮設の本部を構えるという複雑な組織になっています。青年本部は、40才以下の青年衆で祭りを実際に担い運営します。中老本部は、40才以上の人たちで青年衆を見守り補佐します。

【行事次第】祭りは、御夕祭の前日金曜日早朝からの「衣装揃え」から始まります。これは祭りを実際に担う青年衆のお祓いです。

祭りの初日(土曜日)と二日目(日曜日)は、屋台・鹿島踊り・大名行列がそれぞれ各町を練り歩きます。この時、屋台の催し物は「一街(町)一余興」のルールが厳格に実行されます。それぞれの余興が各街ごとの境界線を越える前に必ずその街の青年本部の許可を取らなければなりません。

許可を取る際、電話の使用は許されず青年が伝令に走り回り、街同士の折衝を行うのは「応接権」を持つ一部青年に限られています。各余興がどの街へ何時に入るという時間は予め詳細に決められています。

三日目(月曜日)には、大名行列・神輿渡御行列・鹿島踊り・屋台の順で行列を組んで、大井神社から島田宿の東端にある御旅所(元宮)に「お渡り」し、夕方、再び行列を組んで御旅所から神社に戻ります。

その後、大名行列はお祭り広場に「本陣入り」し、鹿島踊りは自街で舞い納めをし、屋台はそれぞれ自街で夜遅くまで屋台踊りを披露します。今回は三日目のお渡りを見学しました。

【お渡り】大井神社から御旅所までは約1.7Kmありますが、お渡り行列の長さは約1Kmにも及び、大井神社を最初の大名行列が出発してから神輿渡御行列・鹿島踊りが出るまで1時間余もかかります。屋台は神社前に待機していて行列の最後尾に着きます。

お渡りの途中、神輿渡御行列と鹿島踊りは「杉村家」に立ち寄り「中饌祭」の儀式を行います。

大井神社の御神体は、大井川上流の谷畠村の大沢(現在の榛原郡川根本町)に祀られていましたが、建治2年(1276年)の洪水で流されて島田に漂着し、この御神体をすくい上げたのが杉村家の先祖といわれています。

大井神社は、元和元年(1615年)に現在の御仮屋町の御旅所の地に遷され、さらに元禄2年(1689年)に現在地に遷されました。

【大名行列】幟を先頭にして、お先触・お長柄(ナガエ)・具足と若党・御先騎(ゴセンキ)・槍持と片箱・赤鉄砲と黒鉄砲・お弓・御先騎・大奴(オオヤッコ)・挟箱(ハサミバコ)・立傘(タテガサ)と台傘・大鳥毛(オオトリゲ)・紅白のシャグマ・お徒士(カチ)・具足・お台弓(ダイキュウ)とお打物(ウチモノ)・お鷹と餌差(エサシ)・お草履・お唄方・御殿様・槍持と台傘・具足・葛籠馬(ツヅラウマ)の順で、総勢150名ほどになります。

御殿様は紋付羽織袴姿に陣笠を被り馬に乗る小学生で、本町7丁目・祇園町・高砂町から一人ずつ出て三人が一日ずつ務めます。御先騎2騎も同じ衣装の小学生が務めます。

大奴25人は縦2列になって、左手に蛇の目傘を持ち腰の前後から左右に突き出した一間近い木太刀に重さ15Kgの丸帯を下げて、右手でバランスを取りながら進みます。木太刀は華麗に飾られその先端には安産祈願の御札が付いています。

丸帯は、幅70cm長さ4mほどの広幅の布を二つ折りにして芯を入れ仕立てた絢爛豪華な帯で、大奴の行列が祭り見物の一番人気になっています。このため島田大祭は「帯祭り」ともいわれています。

その昔、島田宿では他の土地から嫁いできた花嫁は大井神社に詣でたあと晴れ着姿で宿内をめぐるという風習があり、宿の発展にともない多くの戸数をまわるのが困難になり、花嫁が帯を神社に奉納し大名行列の大奴に帯を託して宿場内の披露に代えたのが「帯祭り」の始まりといわれます。

【神輿渡御行列】各区旗・稚児・大榊・猿田彦・大鉾・大太鼓・四神旗・伶人(レイジン)(楽人)・神輿・「供奉(グブ)車」などの順で進みます。

台車に乗せられた神輿には黄の狩衣(カリギヌ)姿に烏帽子を被る輿丁(コシチョウ)16人が供奉します。宮司・禰宜は、かつては馬に乗っていましたが現在は供奉車に乗っています。

【鹿島踊り】島田の鹿島踊りは、延宝年間(1673~1681年)に疫病退散を願って春日神社(大井神社の境内社)に踊りを奉納したのが始まりといわれ、茨城県鹿島神宮から房総半島・伊豆半島東部などの沿岸部に伝播したといわれる鹿島踊りとは、踊り子の衣装も踊りの内容も全く異なり別系統の民俗芸能のようです。

踊り子は小学高学年~高校生で、三番叟(サンバソウ)2人・お鏡2人・つづみ6人・ささら6人の合計16人が、大通りの両側に2組に分かれて踊ります。

三番叟(サンバソウ)は狩衣(カリギヌ)に軽衫(カルサン)を着け剣先烏帽子(ケンサキエボシ)を被り、右手に鈴を左手に扇を持ち主に後ろ向きになって踊ります。

お鏡・つづみ・ささらは広袖の着物に軽衫を着け赤い焙烙(ホウラク)頭巾を被り、お鏡は大振りの紙垂(シデ)の付いた鏡を左肩に担ぎ右手に鈴を、つづみは左手に鼓を、ささらは右手に竹ささらを左手に棒ささらを持って踊ります。

踊り子の後では、笛10人・手平鉦(テビラカネ)3人・小太鼓3人・大太鼓1名が囃します。楽人(ガクジン)は、濃紺の着物・茶の裃姿に茶の鶏兜を被っています。

【屋 台】屋台踊りをするための踊り子・「地方(ジカタ)」(演奏者)が乗る舞台と豪華な屋根付きの大型の屋台で、運行・転回の際は、屋根の上から指揮する7~8人の「屋根屋」と梃子(テコ)棒で屋台の向きを替えたり止めたりする「梃子屋」が懸命に働きます。また屋台を曳く長い2本のロープも付いています。

舞台での踊りを「上(ウワ)踊り」、地上での踊りを「地(ジ)踊り」と呼んでいます。上踊りの踊り子は各街から選ばれた3~5人の幼児・小学生で、島田に呼び寄せた「花柳流」と「若紫流」の一流の師範による2ヶ月に及ぶ振り付け指導を受けて本番に臨みます。

上踊りを演ずる際には、各屋台にそれぞれ長唄・三味線・囃子の地方10人ほどが同乗し演奏します。また、祭り前日(金曜日)の夕方には、地方が町の人たちに芸の腕前を披露する「お手見せ」が行われるそうです。

地踊りは屋台を出している街の子供や女性が屋台を曳くロープの間で踊ります。

 

   渡御行列(稚児)                        渡御行列(猿田彦)

 

  渡御行列(神輿)                        渡御行列(供奉車)

 

 鹿島踊り(三番叟)                         鹿島踊り(お鏡)

 

  鹿島踊り(つづみ)                       鹿島踊り(ささら)

 

     鹿島踊り                             鹿島踊り(楽人)

 

      御旅所                            大名行列(御先騎)

 

  大名行列(黒鉄砲)                       大名行列(赤鉄砲)

 

  大名行列(大鳥毛)                        大名行列(葛籠馬)

 

大名行列(大奴)

 

上踊り(五街・俄獅子)

 

祭りの栞(トップ)

 

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