御船神事(飯津佐和乃神社)

【祭礼日】9月第三土・日曜日
【場 所】飯津佐和乃神社(牧之原市波津1000-1)

【日 程】土曜日19:00(柱起こし・帆揚げ)、日曜日8:30(神事)、11:00(柱起こし・帆揚げ)、12:00(神輿渡御)、13:00(津島神社)、14:00(大和神社)、15:00(秋葉社)、16:30(神輿還御)

飯津佐和乃(ハヅサワノ)神社の例祭の中で、海運の興隆と海上安全を祈願する「御船神事」が行われます。

当日配布された神社資料によれば、神輿渡御自体は神輿が出来た天保3年(1832年)から始まり、御船神事は明治29年(1896年)に御船が建造されてから神輿渡御のお先供(サキドモ)を務めるようになったとのことです。

同じ牧之原市の大江八幡宮の御船神事は、文政7年(1824年〉の「八幡宮御船造替掛金帳」という古い記録があることから文政年間にはすでに行われていたことになり、飯津佐和乃神社の御船神事は大江八幡宮の御船神事から独立して行われるようになったといわれます。

飯津佐和乃神社は海浜から500mの近距離にあり、大江八幡宮は萩間川河口を2Km以上遡った所にありますが、ともに江戸時代中期の相良藩領内にあり、当時の藩主は田沼意次(オキツグ)でした。

明和4年(1767年)田沼意次公のお国入りに際し城下町の廻船問屋が「菱垣(ヒガキ)廻船」と「樽廻船」の精巧な模型を寄進し、その船を練って入城したのが大江八幡宮の御船神事の始まりといわれています。

菱垣廻船は、江戸の10組問屋と大阪の24組問屋が組合を結成し、この組合に属する舶であることを示すために舷側に木製の菱組格子を組んだ「菱垣」を装着した廻船のことをいいます。

飯津佐和乃神社の御船神事で使用される御船は、1500石積の菱垣廻船と1000石積の樽廻船の模型で、いずれも長さ約2mで重さは50~60Kgです。

祭り当日、神社拝殿前に並べ置かれた3艘の船の前で神職が祝詞を奏上した後、「柱起こし」が行われます。紺の浴衣に白の帯を締め白の地下足袋を履いた「船若(フナワカ)」の青年30人余が、船の艫(トモ)側に立つ「歌出し」に合わせて「木遣り」「口説き」を歌い、30分以上かけて帆柱をゆっくりと起こします。

次に、木遣りを歌いながら「帆揚げ」を行います。こちらは数分で終わります。

しばらく休憩した後、御船3艘・獅子4頭・猿田彦・社名旗(白10数本)・拝領社名旗(赤数本)・浦安舞姫4人・神輿・宮司(馬乗)などの順で神輿渡御が出発します。

御船は4人の船方が両脇で添え木を持ち、その後ろから他の船若が練り歌を歌いながら進み、練り歌の切れ目で御船は疾走し、停まると船首と船尾を交互に激しく上下させます。廻船が大海原の荒波を乗り越えていく様子を表現している「船返し」というのだそうです。

また巡行中、各地区の囃子屋台が囃しで渡御行列を迎えます。囃子屋台は、6本の柱に支えられた屋根付きの素通し舞台形式の屋台で、笛・太鼓の囃子方が乗っています。中にはおかめ・ひょっとこが乗っている屋台もあります。

御船は屋台の前でも船返しを行います。見かけた屋台は、壱の会・は組・第三ブロック・さ組・ふく岡の5台ですが、他にまだいるのかもしれません。

渡御行列は、津島神社と大和(オオワ)神社で神事・浦安の舞・帆揚げを、秋葉社で神事・帆揚げをした後、地区内を巡幸し夕方飯津佐和乃神社に還御します。

 

 祝詞奏上                               柱起こし

 

          帆揚げ                       御船を揺らす

 

  獅子4頭が疾走する                      獅子に頭を噛んでもらう

 

    神事(津島神社)                       浦安の舞(津島神社)

 

      先供する御船                     御船を揺らす

 

     囃子屋台(は組)                     囃子屋台(第三ブロック)

 

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