【祭礼日】7月19~21日
【場 所】阿治古神社(熱海市網代172)
【日 程】19日宵宮祭15:30(浦安の舞・鹿島踊り)、20日例大祭9:45~11:00(神事=神社)、11:00(鹿島踊り=神社)、11:15~12:30(渡御)、16:00(鹿島踊り=御旅所)、16:15~17:45(還御)、17:50(鹿島踊り=神社)、21日後祭・網代ベイフェティバル
網代は江戸時代には「京・大阪に江戸・網代」と呼ばれたほどの漁業の地として知られ、この網代の阿治古(アジコ)神社の例大祭の中で、御神幸行列と鹿島踊り奉納があります。今回は20日の例大祭を見学しました。
【御神幸行列】この渡御は豊臣秀吉の小田原攻めに、30艘の船を出し戦に加わった地元の漁師たちが、戦勝祝いとして始めたとされ豊漁と無病息災を祈願します。
神職・巫女が祓所でお祓いの後、半着姿で刀を持つ若衆が2列に並ぶ中を本殿に上がって行きます。そして神事が終わり、境内で鹿島踊りが奉納された後、渡御(お下り)が始まります。
渡御は、神社の御神体を「両宮丸」の神輿に遷座することから始まります。白い大きな布と何本もの竹で隠された御神体を白張(ハクチョウ)に袴姿の約10人が両宮丸の神輿に移します。両宮丸は長さ約10m余、重さ10トンほどです。
御神幸行列は、鉾旗2本・神社幟1本・太鼓1台・神社の神紋(三つ巴)幟4本・錫杖を持つ2人・獅子2頭・大麻(オオヌサ)2本・両宮丸の順で進みます。獅子頭はかなり大きく2人で持ち、長い胴幕の中には10人ほどが入っています。大麻は和紙で作られた大型の幣束で、二本で一対となっています。
神船の両宮丸の後部には囃子方が乗り込み、その上を流れ瓢箪模様の覆いの幕が張られています。船を綱で引っ張る20~30人の若衆の半着、船の横に付き添い赤と黄の長い襷を掛けた10人ほどの若衆の半着も、全面流れ瓢箪の模様です。神船とその奉仕者には、秀吉から流れ瓢箪の模様を使用することが許されたとされる故事を今に伝えています。
両宮丸は狭い路地や通行止めしたR135などを巡幸します。この時、氏子の皆さんが神輿を載せた両宮丸に向けてお賽銭を投げ入れます。また狭い路地で両宮丸が方向転換する時は、白張(ハクチョウ)に袴姿の唄上げ役が小早唄(コハヤウタ)を唄った後、6人の若衆が3本の梃子棒で船の向きを変えます。
1時間余の巡幸の後、御旅所に神輿が安置され神事が行われます。
【鹿島踊り】茨城県鹿島神宮の神人による疫神送り(悪霊祓い)がその起源といわれ、千葉県、及び神奈川県西部から静岡県伊豆半島東部の沿岸部に伝播しています。
本殿での神事が終わると境内で鹿島踊りの奉納が始まります。白張浄衣(ハクチョウジョウイ)の白装束姿で左腰に三つ折りの半紙を付けた30~40人が、円形と列形の踊りを交互に踊ります。列形ではその向きを3方向に変えます。列形・円形いずれの場合も、踊りの中央に神前に向けて締め太鼓を据えてその位置は動かしません。
締め太鼓の前には、白張に白い馬乗り袴を着け左手に白扇、右手に大麻と日形と月形一対のお鏡を持った2人が踊り、その周りには左手に白扇、右手に白い幣束を持ったもの、さらにその外周を赤・紫・黄などの色幣を持ったもの30人ほどが、羽織袴姿の唄上げ役二人の音頭に合わせて唄いながら踊ります。
還御前に行う御旅所での鹿島踊りは気が付かず見過ごしてしまいました。
【還 御】還御(お上り)にあたり、御旅所に安置した神輿の儀神体を両宮丸に遷座する際も、白い大きな布と何本もの竹で御神体を隠して移します。神社前の参道に至ると、幟持ち・提灯持ちなどはゆっくりと進みますが、獅子2頭と両宮丸は神社に向けて全速力で走ります。両宮丸を神社の階段前で止めると、これまで両宮丸を引っ張り付き添った若衆が胴上げをしたり抱きあって泣くなど、祭りを無事に終えたことを喜び合います。
例によって、白い大きな布と何本もの竹で御神体を隠しながら、両宮丸の神輿から本殿に移します。この後、境内で鹿島踊りが奉納されて例大祭が終わります。鹿島踊りの踊り手が腰に付けていた三つ折りの半紙を岩田帯の中に入れると安産祈願のお守りになるといわれます。
<鹿島踊り歌>
この祭りはめでたいまつり アソリャ
ソラー 神もよろこびめでたい
アイエヤエー世の中はソコソコーーー
まんごう末代ヨホーーー
ソラー みろくお宮が七つつづいた アラーサアーソリャ
アイエヤエーかんどりは四十九御社ヨホーーー
ソラー 音にきくさいとうおどる
アイエヤエーいざさらばソコソコ---
我らも参りてテヘーーー (以下略)
祓 所 警護する若衆
待機する両宮丸 御神体遷座
唄上げ役 鹿島踊り
鹿島踊り 獅 子
大 麻 両宮丸巡幸
太鼓打ちの披露 御旅所で神事
小早唄唄上げ 梃子棒で向きを変える
走る獅子 走る両宮丸
鹿島踊り