遠州大念仏(犀ヶ崖資料館)

【祭礼日】7月15日
【場 所】犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷町25-10)

【日 程】18:30(盆踊り)、19:00(大念仏)、19:30(盆踊り)、20:00(大念仏)

武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で敗れ浜松城に籠った徳川家康は、追撃してくる武田軍を「犀ヶ崖(サイガタケ)の奇襲」で犀ヶ崖の谷底に追い落とし、武田軍は多数の戦死者を出しました。その後、谷底から亡霊の声が聞こえるようになり、村々に蝗(イナゴ)の大群が発生し農作物が食い荒らされるようになりました。

家康の命により貞誉了傳(テイヨリョウデン)が大施餓鬼を行い念仏を唱えたところ、亡霊は鎮まり疫害虫も次第に治まったといわれ、これが「遠州大念仏」の始まりと伝えられています。

江戸時代の盛んだった頃には多くの村々から犀ヶ崖に集まって念仏踊りが行われていました。明治時代の廃仏毀釈(ハイブツキサシャク)などで遠州大念仏は大正時代に一旦途絶えましたが、昭和5年(1930年)「遠州大念仏団」(遠州大念仏保存会の前身)が結成され復活しました。

現在、「遠州大念仏保存会」には約65組の団体が所属し、初盆を迎えた家から依頼されると、各組がその家まで出向いて庭先で大念仏を演じます。

また、毎年7月15日、犀ヶ崖古戦場の隣にある犀ヶ崖資料館の前庭で三方ヶ原合戦の死者の供養として遠州大念仏が行われています。今回はこの犀ヶ崖念仏を見学しました。

犀ヶ崖念仏では、毎年2組の団体が遠州大念仏を奉納します。今年は「小松名風組」と「下小林組」です。

各組の念仏踊りの前後には普通の盆踊りが行われます。浴衣姿の大人の輪の外側で華やかな浴衣を着た子供たちが大きな輪になって一緒に踊ります。

盆踊りが終わると、小松名風組の大念仏が奉納されます。

浴衣姿に黒の紗を羽織り提灯を持つ頭先(カシラサキ)2人を先頭にして、幟・びんどうろう(濱灯籠)を持つ頭(カシラ)2人・双盤(ソウバン)・笛・摺鉦(スリガネ)・太鼓・供回り(トモマワリ)・押しの順で、道囃子を奏しながら入場します。

太鼓打ちは輪になって太鼓と笠を地に置き、合掌して南無阿弥陀仏を何度か唱えた後、大きな桶胴太鼓を左手に抱えたり、手に持ったりして右手の撥で太鼓を打ちます。太鼓を地に置いた時は両手に撥を持ち太鼓を打ちます。

双盤と笛は輪の外で囃し、摺鉦打ちは時々太鼓打ちの中に入って一緒に踊ります。歌い手は、回向する対象に合わせた「歌枕」を歌います。

2回目の盆踊りの後、下小林組が同じように大念仏を奉納します。人数や衣装などは組により異なり、踊りの内容も少し異なるようです。

当日配布された資料に歌枕の一部が掲載されていました。

<先祖の場合>

極楽の玉の簾を巻き上げて 弥陀の浄土を拝みこそすれ 

極楽の庭の坪木になにがなる 南無阿弥陀仏の六字こそなる

<祖父母の場合(老人の場合)>

年寄れば腰に梓の弓を張り 登りかねたよ死出の山路を 

死出の山登り登りて後見れば 旅路はるかに雲のたなびく

<親の場合>

我が親の野辺の送りのそのときは 涙曇りて道の暗さよ 

蛍虫誠なさけがあるなれば 光放ちてわれをみちびけ

<夫妻の場合>

我が妻は御山の奥のほととぎす 人こそ知らねど泣かぬ日は無 

昔より盆にはいつもなき人の 来るとは言えど見えぬはかなさ

<嫁の場合>

ひよひよと育つ子供をふりすてて なぜに急ぐぞ死出の山路を 

死出の山登りてみれば山おろし 冥途の風が我をみちびく

<子供の場合>

春くれば木の芽ももゆる花咲くに なぜに吾が子は帰りきたらん 

帰らざる浄土に春がおとずれて 花も咲くなお花畑に

 

      盆踊り                          頭先・幟(小松名風組)

 

びんどうろう(小松名風組)                    双盤(小松名風組)  

 

摺鉦・笛(小松名風組)                     太鼓(小松名風組)

 

念仏踊り(小松名風組)

 

念仏踊り(小松名風組)

 

  頭先(下小林組)                       念仏踊り(下小林組)

 

念仏踊り(下小林組)

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