御船祭り(穂高神社)

【祭礼日】9月27日
【場 所】穂高神社(安曇野市穂高6079)

【日 程】13:00~14:00(御船巡行)、15:00~16:00(式典)、16:00~17:00(御船祭り)

安曇野は、古代に船で玄界灘の荒海を乗り越え大陸と交易して北九州に栄えた文化の高い安曇(アズミ)族が、日本海を移動して信州に入り開拓した地域といわれています。

穂高神社の主祭神は「穂高見命(ホタカミノミコト)」で、弘仁6年(815年)に編纂された「新撰姓氏録」には「安曇宿祢(スクネ)は海神(ワタツミ)綿積豊玉彦(ワタツミトヨタマヒコ)の神子(ミコ)穂高見命の後裔なり」と記されていて、安曇族は綿積豊玉彦と穂高見命の子孫とされています。

穂高神社の「御船祭り」は、安曇族の中興の祖「安曇比羅夫(アズミヒラフ)」が朝鮮半島の「白村江(ハクスキエ)の戦い」(倭国・百済の連合軍と唐・新羅連合軍との戦争)で、天智2年(663年)8月27日に戦死した日に因んで、新暦9月27日に行う追悼の祭りと考えられています。

御船祭りでは、穂高町区・等々カ(トドロキ)町区の両町区と穂高区から大人船各1艘、穂高町区・等々カ町区・穂高区から子供船各1艘、合計5艘が出され、大人船2艘のぶつけ合いがこの祭りの特徴となっています。

御船祭りに関する正徳5年(1715)の初見文献では、「一艘を穂高村、ほかの一艘を穂高町村と等々力村で出すことになった」とあり、子供船は江戸後期の天保14年(1843)から出されるようになったといわれます。

【御船の構造】大人船は、長さ12m、高さ5.6m、幅2.8m、重さ5トンほどの大型の船で、船には笛・太鼓の囃子方10数名が乗ります。子供船は大人船より一回り小さい船です。船の底には木製の四輪の輪が付いていて、綱で引っ張ったり後ろから押したりして移動します。

御船は木で船の骨組みを構え、祭りの当年に山から切り出した「なる」という木を網目の籠状に組んで船の前方と後方に船の腹を作ります。

前方の男腹には男性の着物を、後方の女腹には女性の小袖をそれぞれ10数枚掛けて飾り、船の上部に水引幕を張り巡らします。御船に飾られた着物に手を通すと丈夫になるといわれています。

それぞれの船の中央には、歴史や伝説を題材にした「穂高人形」が飾られます。人形は、木・藁・「砥の粉(トノコ)」・「膠(ニカワ)」など昔ながらの材料で作られています。砥の粉は石を細かく砕いた粉で、膠は動物性の接着剤です。

今年の穂高人形の題材は、「本能寺の変」・「平清盛大輪田泊(オオワダノトマリ)」・「片手千人斬り」などです。

【行事次第】午後から御船はそれぞれの地区を巡行した後、穂高神社に集まります。本殿での例祭神事が終わると、子供船が等々力町区・穂高町区・穂高区の順で1艘ずつ、笛・太鼓の囃子を奏しながら神楽殿を三周し境内から出ていきます。

この後、御船の前後の着物が取り払われ骨組みがあらわになった両町区と穂高区の大人船のぶつけ合いが行われます。

両町区の大人船が神楽殿を周回し一周目の終わる頃、穂高区の大人船が両町区の二周目の後に付いてともに周回し、三周目で二つの船の向きを整えて、20mほど離れたところから互いに勢いをつけて押し激しくぶつけ合います。この最中も、船の中では笛・太鼓の囃子が奏されています。

最初は、両町区の男腹と穂高区の女腹を三度ほどぶつけ合い、次に、互いの船の向きを替えて男腹と女腹を三度ほどぶつけ合います。船の腹はしなやかななるの木で作られているので簡単には壊れません。

ぶつけ合いが終わると、両町区の御船はそのまま境内を出ていき、穂高区の船は神楽殿を二周して境内を出ていきます。

 

穂高町区(子供船と穂高人形)

 

両町区(大人船と穂高人形)

 

穂高区(大人船と穂高人形)

 

等々力町区(子供船と穂高人形)

 

         両町区                         両町区(左)・穂高区(右)

 

両町区(左)・穂高区(右)

 

 退場する両町区(大人船)                  退場する穂高区(大人船)

祭りの栞(トップ)

 

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