神剣渡御祭(石上神宮)

【祭礼日】6月30日
【場 所】石上神宮(天理市布留町384)

【日 程】13:00(本宮祭=石上神宮)、13:30(渡御)、14:00(例祭=神田神社)、14:30(御田植神事=神田神社)、15:00(還御)、15:30(還御祭=石上神宮)、17:00(夏越の祓・茅の輪くぐり神事=石上神宮)

6月30日、石上(イソノカミ)神宮では「神剣渡御祭」と「夏越の祓」・「茅の輪くぐり神事」が行われます。今回は神剣渡御祭を見学しました。

石上神宮本殿で「神剣渡御本宮祭」を行った後、太鼓・榊・花鉾・早乙女・作男・楽人・「御神剣」・神職・花鉾などの順で行列を組んで、300mほど西にある境内末社の神田(コウダ)神社へ向かいます。この時、太鼓がでんでんと打ち鳴らされるので、神剣渡御祭は「でんでん祭り」とも呼ばれています。

錦の袋に包まれた御神剣は石上神宮の御神体で「韴霊(ふつのみたま)」と呼ばれています。日本書紀には韴霊について次のように記されています。(要約)

『神武天皇東征の際、熊野荒坂津(クマノアラサカツ)で天皇と軍は神が吐いた毒に当てられ病みました。この時この土地に住む熊野高倉下(クマノノタカクラジ)が「天照大神(アマテラスオオミカミ)の命で武甕雷神(タケミカヅチノカミ)が韴霊をお前の蔵の中に置いておく。これを天孫に献上しなさい」という夢を見て、蔵の床板に突き刺さっていた剣を天皇に献上すると、天皇と軍は元気を取り戻しました』

明治以前の神剣渡御祭では、御神剣の代わりとして「七支刀(シチシトウ)」(1953年、国宝に指定)が用いられていたそうです。

この七枝刀は、日本書紀神功皇后の項で「摂政五十二年秋九月、百済の久氐(クテイ)たちは千熊長彦(チクマナガヒコ)に従って詣で、七枝刀(ななつさやのたち)を一口、七子鏡(ななつこのかがみ)を一面、および種々の重宝を献上しました」と記されている七枝刀にあたると推測されています。

神田神社に行列が着くと例祭神事が行われます。神田神社の御祭神は、神武天皇を助けた「高倉下命(タカクラジノミコト)」です。

神事が終わると、神前に設けられた斎場で御田植神事が行われます。斎場は4本の斎竹(イミダケ)に巡らされた注連縄で囲まれ砂が盛られています。

明治初年までは神田神社の旧社地(天理市三島町小字神田)に石上神宮の神饌田一町歩があり、神饌田にその年はじめて苗を植える儀式に神を降ろす祭具として御神剣を用いていたことに習って、御神剣が渡御し斎場に立て置かれます。

御田植神事は、白の狩衣(カリギヌ)姿に烏帽子を被る作男により「鍬入れ」「田起こし」「畦(アゼ)塗り」「穴あけ」「大豆種蒔き」「灰撒き」「代掻き」「苗配り」「田植え」の順で行なわれます。

田起こしは牛役が唐鋤(カラスキ)を曳き、代掻きは万鍬(マンガ)を曳きます。穴あけ・大豆種蒔き・灰撒きでは、田の畦に大豆の種を蒔き肥料を施す所作を演じます。

田植えは、紺絣の半着・赤の腰巻姿に赤の襷・白の手甲脚絆を着け一文字笠を被る3人の早乙女が本物の稲苗を斎場に並べます。

田植えが終わると、見物人は斎場に並べられた稲苗を取り合い持ち帰ります。害虫除け・疫病退散・除災招福の御利益があるとされています。

 

神剣渡御

 

神剣渡御

 

 鍬入れ                                 田起こし

 

畦塗り                                 穴あけ

 

大豆種蒔き                               灰撒き

 

代掻き                                 苗配り

 

   田植え                              苗を取り合う

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