精大明神例祭(白峯神宮)

【祭礼日】7月7日
【場 所】白峯神宮(京都市上京区飛鳥井町261)

【日 程】14:00(神事)、14:20~14:30(舞楽)、14:40~15:10(蹴鞠)、16:20~16:50(小町をどり)

「精大明神(セイダイミョウジン)例祭」は、白峯(シラミネ)神宮の境内社・地主社(ジシュシャ)に祀られている精大明神の祭礼で、舞楽・蹴鞠(ケマリ)・「小町をどり」が奉納されます。

白峯神宮は、明治天皇の勅願により、平安時代末期の保元の乱に敗れて讃岐国に流されその地で崩御・白峰陵に祀られた崇徳上皇の神霊を遷して明治6年 (1873年) に創建された神社で、その場所は、蹴鞠・和歌の宗家であった飛鳥井(アスカイ)家の鎮守社・精大明神が祀られていた所です。

祭礼当日は、地主社で神事が行われ、京都和楽会による舞楽が奉納された後、境内の「蹴庭(マリニワ)」で蹴鞠と小町をどりが奉納されます。

【蹴 鞠】蹴鞠は、1400年ほど前に中国から伝わった遊戯で、鹿皮製の鞠を落とすことなく蹴り上げ相手に渡しその回数を競います。

最初に、杏色の大紋直垂(ダイモンヒタタレ)姿に沓(クツ)を履き、立烏帽子(タテエボシ)を被る1人が梶の木と白の鞠を持って蹴庭に登場し、蹲踞(ソンキョ)して梶の木で鞠を祓い清める所作をした後、鞠を蹴庭の中央に置きます。

梶の木は、古来神に捧げる神木として尊ばれた木で諏訪大社の神紋にもなっていて、その葉は、表面に生えた繊毛により「墨のノリが良い」ということで、かつては七枚の梶の葉に詩歌などを書いて七夕の笹飾りとして供え、芸能の向上や恋の思いが遂げられることなどを祈る風習があったそうです。

平安時代の応徳3年(1086年)に完成した「後拾遺(ゴシュウイ)和歌集」に『あまのがは とわたるふねの かぢのはに おもふことをも かきつくるかな』という歌があります。「かぢのは」は、天の川を渡る船の舵と梶の葉を掛けています。

鞠が蹴庭の中央に置かれると、同じ大紋直垂姿に沓を履き立烏帽子を被る8人が、鞠を囲んで大きな輪を作り片膝立ちになり鞠に一礼した後、立上り輪になって蹴鞠を始めます。沓を履いた右足で蹴る決まりになっていて、相手に受け取りやすく打ち返しやすい球を送る技術の高さを競います。

蹴鞠が終わると、一般の人にも蹴庭で蹴鞠を楽しむことが許され、この間に地主社で神事が行われます。

【小町をどり】小町をどりは、奈良時代の陰暦七月七日夜、芸能が上達することを祈願する「乞功奠(キコウデン)」の際、供え物として公卿等が詠んだ詩歌を届ける時に、文使いのお供をする娘たちがその道中で歌い舞った踊りが起源とされています。

蹴庭の中央に七夕の短冊を付けた「大笹」が立てられ、舞姫の彦星・織姫を先頭にして小町をどりの踊り子20数人が縦一列になって蹴庭に入り大きな輪になります。

彦星は、紺の着物姿に白の領巾(ヒレ)を首から肩に掛け角頭巾(スミズキン)を被っています。織姫は、白の着物姿に鶯茶の領巾を首から肩に掛け掛け2連の首飾りを付け花簪を挿しています。

踊り子の少女は、花模様の華やかな着物を片袖脱ぎし緋の襦袢を露わにし、金襴の帯の下に赤のしごきを着け金襴の襷を掛け、頭には紫の鉢巻を向こう縛りし銀の簪を挿しています。手には平巴の太鼓と撥を持っています。

最初は、踊り子だけが大笹を囲んで大きな一重の輪になって、太鼓を打ちシナを作ったりしながら10分ほど踊り休憩します。休憩の間に彦星・織姫が拝殿で舞を奉納した後、拝殿から色紙を撒きます。

次に、彦星・織姫が天の川に見立てた大笹を挟んで対になり領巾を両手で拡げながら踊り、これを囲むようにして踊り子が大きな輪になって太鼓を打ちながら10分ほど踊り、小町をどりは終わります。

 

梶の木で鞠を祓い清める

 

蹴 鞠

 

舞姫と踊り子                    小町をどり

 

舞姫が色紙を撒く                           小町をどり 

 

舞姫が踊りに加わる                           小町をどり 

祭りの栞(トップ)

 

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