葵祭(籠神社)

【祭礼日】4月24日
【場 所】籠神社(宮津市大垣430)

【日 程】9:00~10:00(難波野神楽=参道)、9:40(一番太鼓・神職他本殿へ参進)、10:00(祭典=本殿)、10:30~11:30(溝尻太刀振り=参道)、11:00(神幸祭=本殿)、11:30~12:30(御神幸)、12:50(還幸祭=本殿)、12:50~15:00(大垣大神楽・中野太刀振り・江尻太刀振り=参道)

籠(コノ)神社は、延長5年(927年)に纏められた「延喜式神名帳」にその名が載る古社で丹後国一の宮です。

社伝によれば、現在の奥宮がある眞名井原(マナイハラ)の匏宮(ヨサノミヤ)に神代の昔から豊受大神(トヨウケオオカミ)が鎮座し、第10代崇神天皇の御代39年(紀元前59年)天照大神(アマテラスオオミカミ)が大和国笠縫邑(カサヌイムラ)から遷座され、両神を吉佐宮(ヨサノミヤ)という宮号で一緒に祀り、その後、天照大神は第11代垂仁天皇の御代25年(紀元前55年)に、豊受大神は第21代雄略天皇の御代22年(478年)にそれぞれ伊勢に遷座されました。伊勢神宮内宮には豊受大神が、外宮には天照大神が祀られています。この故事から籠神社は伊勢神宮のふるさと「元伊勢」と呼ばれています。

養老3年(719年)に本宮を吉佐宮(現在の奥宮眞名井神社)の地から現在の籠神社の地へと遷し、社名を籠宮(コノミヤ)と改め、天孫・彦火明命(ヒコホノアカリノミコト)を主祭神として祀り、豊受・天照両神を相殿に祀っています。

籠神社の「葵祭(アオイマツリ)」は、懿徳(イトク)天皇4年(紀元前507年)に奥宮の元初の祭神・豊受大神の「御生れ(ミアレ)の神事」として始められたと伝わり、かつては4月の二の午の日に行われていましたが、明治以降4月24日になりました。

葵祭の要となる御生れの神事は、祭神の神霊を遷した鳳輦(ホウレン)の御神幸により祭神の再誕(再生)を示すことにあり、籠神社の氏子域である難波野(ナンバノ)・大垣・江尻・溝尻・中野の5地区が御神幸の先祓いと祝福の芸を奉納し、国分地区が鳳輦を担ぎます。

難波野は神楽、大垣は大神楽、江尻は大獅子・太刀振り・笹ばやし、溝尻・中野は太刀振り・笹ばやしを奉納します。神楽・大神楽・大獅子はいずれも二人立ちの獅子舞です。

【太刀振り】太刀振りは、襦袢・裁着袴(タッツケバカマ)姿に襷・手甲を着け、白の鉢巻を締め白の足袋・草鞋を履き、両端を紙垂(シデ)で飾った棒の先に刀をつけた長さ2mほどの太刀を持って舞います。襦袢・裁着袴・襷・手甲の色は地区により異なります。

太刀振りには、舞手が一列または二列になっていっせいに太刀を振る「縄手振」と舞手が1~3人だけで太刀を振る「本振」があります。本振では片足交互に太刀を潜らせたり、跳躍して両足を揃えて太刀を潜らせたりします。

太刀振りは、平安時代の貞観年間(859~877年)、籠大明神が中野の鉾立山大乗寺に降臨し、神社にむけて鉾を振り悪魔を払ったことに始まるとされ、中野が籠神社太刀振りの元祖といわれています。

【楽 台】各地区の太刀振りには「楽台(ガクダイ)」が付き添い笛と共に囃します。楽台は、大太鼓と締め太鼓を載せた太鼓台の上に屋根を据え付け、楽台の後部には日の丸扇や色短冊などを付けた竹を立てて飾っています。中野の楽台には赤い傘鉾も付いています。難波野の楽台には屋根はなく小さな社が据えてあります。

楽台の大太鼓は、ビール瓶のような撥(難波野と大垣は普通の撥)2本で打ち、反対側からも細長い2本の撥で打ちます。締め太鼓も細長い2本の撥で打ちます。江尻は大人とともに男女児10人が笛を吹きます。

【笹ばやし】笹ばやしの舞手は太刀振りと同じ衣装ですが、地区により舞い方が異なります。

溝尻は、締め太鼓を手に持つ3人が、最初片膝立ちになり、次に立ち上り太鼓を片手打ちします。中野は、締め太鼓を小脇に抱えた3人と鼓を手に持つ2人が向かい合って立ち、太鼓・鼓を片手打ちします。江尻は、男女児3人が爪先立ちになって地面に置いた締め太鼓を両手打ちします。

【難波野の神楽】本殿での祭典に先立って、社務所前と参道で難波野の神楽が舞われます。神楽を舞う獅子は2頭で、最初に社務所前で子供獅子がササラを持つ天狗と舞い、次に大人が舞う獅子がササラを持つ天狗と舞います。

次に、参道に移り同じように子供獅子と大人が舞う獅子がササラを持つ天狗と舞った後、大人の獅子が天狗とともに剣の舞・毬とり・扇の舞を舞います。参道を清めるもののようです。この最中に一番太鼓が打ち鳴らされると、神職・巫女が列を組んで参道を進み祓所(ハラエド)でお祓いをした後、本殿に入り氏子役員などの神事参列者も続いて、本殿で祭典が行われます。参道での難波野の神楽は続けられています。

【溝尻の太刀振り】本殿での祭典と参道での難波野の神楽が終わる頃、大幟を先頭にして縦一列になって太刀振り(縄手振)を演じながら国道178号線を東進して来た溝尻の一行が神社に到着し、鳥居をくぐると縦2列になり、参道の両側に並ぶ裃姿の歌方に囲まれながら参道で太刀振り(縄手振)を舞います。溝尻は舞手の人数が多いので2列になるようです。

縄手振が終わると、参道の神門前に築かれ御幣が立つ「盛砂」が箒で崩され参道に拡げられます。崩された盛砂の上で、幼児2人による棒振りが行われ場を清めます。次に、年齢の若い順番に1~3人が揃って太刀振り(本振)を奉納します。最後に、笹ばやしが奉納されます。

一方、本殿と神門の間では江尻の大獅子が大暴れし神門から出ていこうとします。大獅子には胴幕に入る2人の他に4人の付き添いがいて獅子を引っ張るので、裃姿の数人が必死になって獅子が神門から出るのを止めます。

【御神幸】参道での溝尻の太刀振り・笹ばやしと本殿での神幸祭がほぼ同時に終わると、暴れていた江尻の大獅子は神門を出て参道を走り抜け、その後ろから鳳輦を先頭にして神職・巫女・木鉾2本・幟約20本・幣束約20本の御神幸行列が続きます。神職と巫女は、豊受大神ゆかりの藤の花を冠に付けています。

鳳輦の担ぎ手は白の狩衣(カリギヌ)姿に烏帽子を被る5人です。木鉾持ち・幟持ち・幣束持ちは裃姿です。

御神幸の先を祓い清めるのは、江尻の大獅子と中野の太刀振り(縄手振)で、御神幸の行列は神社の周りを巡ります。神は旅することで生まれ変わり、恵みを授ける力を新たにすると信じられています

御神幸行列の到着を参道で待っていると、大垣の大神楽と江尻の大獅子が先導していたので、大垣の大神楽も先祓い役を務めていたのかもしれません。御神幸を見学する際に、中野の太刀振りに気を取られていたので気付きませんでした。

【祝福芸の奉納】鳳輦・神職・幟・幣束の行列が1時間ほどの御神幸を終えて、本殿に戻り還幸祭を催すと同時に、参道で神の御生れを祝う芸が奉納されます。

中野の太刀振りが参道を練りながら舞い神門前まで来ると一旦太刀振り(縄手振)を中止し、代わりに参道で大垣の大神楽「六遍返し」が奉納されます。その後、神門前(盛砂があった場所)で中野の太刀振り(本振)と笹ばやしが奉納されます。

最後に、江尻の太刀振り(縄手振・本振)・笹ばやしが参道で奉納されます。祝福芸の奉納は延々2時間余も続きます。

 

 神楽・ササラ(難波野)                    神楽・剣の舞(難波野)

 

 神楽・毬とり(難波野)                    神楽・扇の舞(難波野)

 

太刀振り・縄手振(溝尻)

 

  盛砂を崩す                             棒振り(溝尻)

 

    楽台(溝尻)                       太刀振り・本振(溝尻)

 

 笹ばやし(溝尻)                         大獅子(江尻) 

 

    御神幸(鳳輦)                        御神幸(神職・巫女)

 

     御神幸(幣束)                      御神幸・太刀振り(中野)

 

  御還幸・大獅子(江尻)                      御還幸(鳳輦)   

 

  楽台(大垣)                           大神楽(大垣)

 

   楽台(中野)                        太刀振り・本振(中野)

 

      笛方(江尻)                        太刀振り・本振(江尻)

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