美濃祭り(八幡神社)

【祭礼日】4月第二土曜日と翌日の日曜日
【場 所】八幡神社(美濃市殿町1238)

【日 程】土曜日8:30~15:00(花みこし=市街地)、12:30(花みこし総練り=広岡町交差点)、夕方~(流し仁輪加=市街地)、18:30(流し仁輪加コンクール=観光協会前ポケットパーク)、日曜日13:00~(山車・練り物=八幡神社)、夕方~(流し仁輪加=市街地)、18:30(流し仁輪加コンクール=観光協会前ポケットパーク)

「美濃まつり」は、「花みこし」「山車」「流し仁輪加(ニワカ)」の3部からなる八幡神社の祭礼で、美濃祭りの見どころの一つである花みこしは、江戸時代、当地の雨乞行事に「町騒ぎ」があり、各町内がいろいろなものを作りこれを若衆連が担ぎ踊りまわったことが起源とされています。

明治33年(1900年)から、試楽祭の午前中にいくつかの町内が花みこしを担ぐようになり、大正時代には各町内が鳳凰を付けた御輿を次々に作り担ぐようになり、昭和になると、神輿屋根の鳳凰の代わりに紙の花を付けた「シナイ」を飾り付ける現在の花みこしの形が整ったといわわれます。

【花みこし】花みこしは、美濃市特産の「京花紙」を桜色の濃淡に染めた10cm角の和紙花に切目を入れて、これを長さ5mほどの割竹に飾り付け、このシナイを神輿の屋根の上に束ねて差したものです。桃色に染められた和紙花は1ヶ月間、陰干ししてからシナイに飾り付けられます。

花みこし1基には300本のシナイが使われ、1本のシナイには300~400枚の和紙花が飾り付けてあり、花みこし1基は約10万枚の桃花で飾られます。

【花みこしの総練り】各町内で花みこしが1基ずつ作られ、試楽祭の土曜日に八幡神社でお祓いを受けたのち町内を巡行し、午後からは街の中心部にある広岡町交差点で「総練り」が行われます。花みこしは全部で30基ほどあり、この他に子供花みこしが3基あります。

子供花みこし3基が広岡町交差点を通過すると、桶胴太鼓を胸に付けた20~30人の若衆が交差点で「太鼓競演」を行い、この後、花みこしの総練りが行われます。

花みこしは井桁に組まれた6本(4本+2本)の担ぎ棒に乗っていて「差し上げ」などをするとシナイは数メートルにも拡がるので、花みこしは交差点に順番に3基ずつ入り華を競い合います。総練りが終わるのに1時間ほどかかります。

花みこしの総練りが終わった後の空き時間を利用して「うだつの上がる町並み」を散策し、うだつというものを初めて目にしました。うだつは屋根の両端に造られた防火壁のことで、「うだつを上げる」のにお金がかかったことから、財を成した裕福な商家の象徴なのだそうです。

明日巡行する山車のからくり人形が展示されている集会所もあります。これらを見物しながら流し仁輪加が始まるのを待ちます。

【流し仁輪加】仁輪加とはオチのついた即興喜劇のことで、京都・大阪と常に往来していた美濃紙の商人が伝え、江戸時代末から町内の若衆が祭りに演ずるようになったといわれます。

祭りの2週間ほど前から、15ほどの町内の仲間がそれぞれ集まり時事ネタや世相を元にしてネタを作り練習します。祭り当日には、笛・太鼓・鼓・三味線により仁輪加囃子を演奏しながら町中を巡り、町の辻々で上演して歩くことから流し仁輪加と呼ばれています。

囃子方はそれぞれ10数人で、囃子の中心となる「仁輪加車」は、大八車やリヤカーの中央に数個の提灯を付けた松の木を立て、その前部に大太鼓、後部に締め太鼓を据え付けたものです。

流し仁輪加コンクールは、「うだつの上がる町並み」にある観光協会前の「ポケットパーク」舞台で行われます。仁輪加囃子が演奏された後、様々な変装の衣装を身に着けた1組3人が仁輪加を演じます。

明日は、各町内から浦島車・聖王車・靱車・布袋車・三崘車・舟山車の6輛の山車と5種類の「練り物」が、八幡神社に社参・奉納したあと町内を巡行します。練り物は、浦島太郎や花咲か爺などの昔話を題材にしたもので、子供たちが衣装を纏って練り歩きます。

 

子供花みこし(広岡町交差点)                太鼓競演(広岡町交差点)

 

花みこし(広岡町交差点)

 

花みこしの花を持ち帰る人                  うだつの上がる家        

 

山車のからくり人形                         仁輪加車と舞台 

 

流し仁輪加の囃子方                           仁輪加車     

 

                仁輪加車                     流し仁輪加の囃子方(ポケットパーク)    

 

流し仁輪加(ポケットパーク)

祭りの栞(トップ)

 

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