【祭礼日】3日に近い日曜日(開催年は不定期)
【場 所】加茂神社(小浜市矢代5-4)
【日 程】10:45~11:15(王女慰霊法要=福寿寺観音堂)、11:20~11:40(着付けと祭礼甚句=帳屋)、12:00~13:00(手杵の舞・弓矢の舞と行列=加茂神社・福寿寺観音堂)
奈良時代の天平宝字3年(759年)に、矢代の村に漂着した唐の王女とお付きの女官ら8人を、積荷の財宝に目がくらんだ住民が襲い殺害したしたところ、その後災厄に見舞われたので罪を悔い王女らの霊を供養するために、平安時代からこの祭りが始められたといわれます。
祭りの前日午後、王女らの祀られている矢代崎弁天宮へ加茂神社の大禰宜が小舟で渡り参拝します。夕方、各家の代表である戸主と青年が、福寿寺横に分祀されている弁天小宮で宵祭りを行います。祭礼当日は風雨とも強く開催されるのか危惧しましたが、現地に着くとすでにたくさんの方が来ておられました。顔見知りの方も数人おられました。
最初に、福寿寺観音堂で王女らの慰霊法要が行われます。法要の後、戸主と青年の参列者に「ヘラモ」とご飯が配られ、参列者はこれを手で受け食します。ヘラモは矢代湾内に自生しているヘラ状の海藻で王女らが飢えをしのぐため食したと言われます。堂外の祭り見学者にもヘラモが配られます。
次に、近接している加茂神社の帳屋(チョウヤ)で、太鼓打ちの太鼓に合わせて裃姿の若衆らが祝い歌の甚句を歌う中で、手杵(テギネ)棒振り・刺又(サスマタ)弓矢持ち・鏑(カブラ)弓矢持ちの大役3人が正装着付けをします。用意が整うと大役3人を先頭に、唐船丸・練り子・太鼓持ち・笹持ちの順で帳屋を出て加茂神社本殿と拝殿を二周します。練り子と笹持ち以外は全員裸足です。
【大役3人】唐船の王女らを殺害した矢代の人々を表していると言われ、黒い素襖(スオウ)姿で頭にシダの葉を被り、顔を墨で黒く塗り荒縄を襷掛けしています。手杵棒・刺又弓矢・鏑弓矢ともに大振りの木製です。
【唐船丸】船側に「子安観世音菩薩」と奉納者の名が書かれた旗が20本ほど立てられ、唐船かき役の裃姿の青年6人が、唐船丸の左右に並びこれを手に持って運びます。唐船丸は矢代の人々に殺害された王女らが乗っていた船を表していると伝えられています。
【練り子】王女の女官役の童女8人が、振り袖を着て頭上に宝頭巾を載せています。宝頭巾は唐船に載せられていた黄金を表していると伝えられています。当日は雨のため、帳屋の中では練り子の皆さんは宝頭巾を頭に載せていましたが、後半の行列時には3人しか載せていませんでした。
【太鼓持ち】太鼓持ち2人と太鼓打ち1人は、黒い長着を尻端折りし白の股引姿で、頭にシダの葉を被っています。顔は素顔で墨は縫っていません。太鼓持ちは荒縄を左肩から右脇に掛け、太鼓打ちは赤い紐を襷掛けしています。この太鼓が手杵祭の唯一の楽器です。
【笹持ち】4人の男児が葉の付いた青竹を持ち太鼓持ちの後ろを付いて行きます。この4人だけは普段着で靴も履いています。昔は笹持ちが歌う歌に合わせて太鼓打ちが太鼓を打ったそうです。
加茂神社拝殿を二周する形で、手杵棒振りによる地・天・中の「手杵の舞」が舞われます。次に、刺又弓矢持ちと鏑弓矢持ちが相闘う「弓矢の舞」を舞います。神社境内での舞が終わると行列を組んで神社鳥居前に向かいます。
この頃になると雨も止み、練り子と笹持ちが着ていた雨合羽を脱ぎ、練り子の本来の晴れ姿を写真に収めることができました。神社鳥居前と福寿寺観音堂前でそれぞれ「手杵の舞」と「弓矢の舞」が舞われます。
福寿寺観音堂前での舞が終わると行列を組んで加茂神社境内に戻り、唐船かきの6人が唐船丸を囲んで祭り甚句を歌い、祭りが終わります。
観音堂で供養法要 ヘラモを食す
帳屋での儀式 刺又弓矢・鏑弓矢・手杵棒振り
手杵の舞(加茂神社境内) 弓矢の舞(加茂神社境内)
唐船丸 太鼓持ちと笹持ち
練り子
手杵の舞(観音堂前) 弓矢の舞(観音堂前)